| 八重山商工 24日(金)第3試合です 春の選抜高校野球 |
23日に開幕する第78回センバツ高校野球大会に全国最南端の八重山商工が出場する。沖縄の離島で初めてつかんだ
甲子園。島人(しまぴとぅ)たちの願いを実現させたのは、夢をあきらめない1人の指導者だった。
南国特有のスコールはあがった。厚い雲が垂れこめ、生ぬるい風が吹き抜ける。沖縄本島から南西に約430キロ。
八重山商工がセンバツを決めた1月31日夜、石垣島の人々は、歌と踊りで喜びを分かち合った。
その輪から離れて、監督の伊志嶺吉盛(52)はいつものようにグラウンドでノックを続けた。
初めて甲子園にあこがれたのは中学3年、本土復帰前の68年夏だった。沖縄勢初のベスト4に入った興南の
快進撃をラジオで聞き、胸がときめいた。高校に入り、少年マガジンの「巨人の星」に出てくる大リーグボール養成ギプスに
刺激され、底に鉛を流し込んだ重いスパイクをつくり、砲丸を投げて肩を鍛えた。雨の日も走り込んだが、夢はかなわなかった。
石垣島では70年代後半から新空港建設問題が浮上した。長引く議論で島民を分断し、ようやく00年春に建設地が決まり、
道筋が見え始めた。01年秋、八重山毎日新聞社の編集長、上地義男(57)は明るいニュースを探していた。
「島の人は空港問題で十分苦しんだ。今度は楽しい夢を見る番だ」。思いついたのが、甲子園出場だった。
友人と泡盛を飲みながら、どうしたら甲子園に行けるか議論した。隣に住む男の顔が浮かんだ。
当時、少年野球の指導者をしていた伊志嶺だった。「島には才能のある子が大勢いるが、実戦経験を積めない。
放っておけば優秀な子は島外に出る。有名監督を招くしかない」。伊志嶺の主張に感心した。
この時の話にヒントを得て「八重山も甲子園に行こう」と題する社説を書き、地域全体で取り組むことを訴えた。
02年の元日紙面では、野球関係者の座談会を掲載した。上地は「本気で甲子園に行けるとは思わなかった。
大人が夢を見ることで島を明るくしたかった」と打ち明ける。
石垣市長の大浜長照(58)も甲子園への夢を抱いた一人だった。「私たちの世代には、本土へのコンプレックスがある」
と言うが、郷土の偉人で、元早大総長の大浜信泉(故人)の言葉を信じている。「人の価値は生まれた場所で決まるのではなく、
いかに自分を磨くかで決まる」。島の子どもたちも磨けば甲子園に行けると考えた。
大浜の目に留まったのは、01年に全国優勝を含む160戦無敗の成績をあげた地元の少年野球チームだった。指導していたのは伊志嶺。
大浜は「この監督と子どもたちなら甲子園に行ける。島の子に自信と勇気を与えられる」と確信を持った。
02年末、市は月5万円で八重山商工野球部の監督に伊志嶺を派遣することを決める。伊志嶺にとって20年前に結果を出せず
辞めた学校だった。「このチャンスにすべてをかけよう」。伊志嶺は、頭をそり、酒をやめた。
「バカタレ、しっかり捕らんかー」「ちゃんと見れー、アホタレ」。03年春、八重山商工の監督に就任した
伊志嶺吉盛(52)は猛練習を始めた。ミスした選手は容赦なくしかりつけた。「刺激や競争の少ない島の子は
精神的に弱い。怒鳴られて、『なにくそ』とはい上がってこないと心の強さは育たない」
少年野球でもそうだった。批判する保護者もいたが「優しい言葉では、しかれない。子どものためだから」とひるまなかった。
03年夏の沖縄大会に出場した八重山商工は、過去最高のベスト8に進む。伊志嶺の監督起用は成功に見えた。
準備期間が短く、少年野球で使っていたサインプレーなどは教え切れなかったが、結果を残せた。
島人(しまぴとぅ)たちは「ちゃんと練習を積めば甲子園に行ける」と期待した。
だが、ほころびが気づかぬうちに出て、一気に広がる。新チーム結成後に退部者が相次ぎ、9月には1年生2人だけになった。
自宅には「やめれ」という嫌がらせ電話がかかる。市議会でも「監督と選手の信頼関係が欠如している」と批判された。
残った2人の部員とボールを追った。「今は2人でも、頑張れば甲子園に行ける。絶対に連れて行く」と繰り返した。
温かく見守る目もあった。半年前の03年3月まで伊志嶺が指導した少年野球の選手の父親は、度々グラウンドを訪れた。
ある時、一人で腰をかがめ穴の開いたネットを繕う伊志嶺の姿が目にとまった。父親は「上等よー。
それなら海人(うみんちゅ)(漁師)のバイトができるさー」と声をかけ、苦笑いさせた。伊志嶺を思いやってのことだった。
伊志嶺が監督になる時に交渉役だった当時の市企画開発部長、高木健(62)は、
暗くなりかけたグラウンドで3人だけのシルエットを見て、車を止められずに走り過ぎた経験を持つ。
「かわいそうで声もかけられんかった。甲子園なんてむちゃなこと、求めて悪かった」。ハンドルを握りながら泣けてきた。
この時期、伊志嶺は将来の成功を期して、色紙に「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」と書いて部室に掲げた。
高校の野球部で1年先輩だった喫茶店主、平得修(53)は言う。「店ではいつも陽気だったが、
この時期はカウンターに一人静かに座り、考え事をする姿が目立った」
白保のサンゴを守ろうと新空港建設の反対運動に参加した県職員、砂川哲雄(60)の目には、
チームの混迷が曲折を経た新空港問題と重なって見えた。伊志嶺の少年時代に隣家に住んでいた砂川は、
明けても暮れてもボールを追う野球少年の姿をよく覚えている。「キバリヨー、ヨシボー」と心の中で声援を送った。
04年春、少年野球や中学の硬式野球で伊志嶺の指導を受けた7人を含む10人が入部し、グラウンドに活気が戻った。
伊志嶺は新チームのTシャツの袖に、半年間の悔しさを忘れないため「臥薪嘗胆」の刺しゅうを入れた。
八重山商工野球部の進撃が始まった。
八重山商工監督に伊志嶺吉盛(52)を招へいする時に交渉役だった石垣市職員の高木健(62)は新入部員が
入ったのを見届け、04年春、定年退職した。その後も度々練習を見に行き、離島のハンディを思い知る。
「本島での大会に出場すれば飛行機代や宿泊代がかさみ、親の負担は増す。
本土の強豪との試合はなおさらだ。この男を支えなければ」思案の末、伊志嶺の友人らと
「夢実現甲子園の会」を04年7月に結成する。伊志嶺の高校時代の先輩、平得修(53)が営む喫茶店「海坊主」で、
毎週のように泡盛を飲み夢を語った。参加費から酒代を除いた分を選手の父母会に寄付した。
04年8月、本島での新人大会で八重山勢として初優勝したが、沖縄秋季大会は準決勝で敗退。その後は負傷者が相次ぎ、
練習をサボる選手も出る始末だった。伊志嶺は振り返る。「近くに刺激となる強豪校は多くない。
同じ島で育ったニーニー(お兄さん)だから先輩と後輩は仲が良過ぎて緊張感がなかった」
だが05年の夏が近づくと、選手たちに変化が表れた。部員2人という冬の時代を経験した主将、
佐久川直浩(18)の最後の夏に、後輩たちは「キャプテンを甲子園に連れて行こう」と口にした。
ところが、気持ちとは裏腹に3回戦で敗れる。最後の打者となった佐久川は、試合後に伊志嶺から「3年間、よく頑張ったな」と
優しく声をかけられた。たまらず涙があふれ、後輩たちも泣きじゃくった。チームが初めて流した悔し涙だった。
殻を破るため、チームはこの夏、夢実現の会の支援で関東遠征に行く。埼玉・浦和学院の選手たちと練習して、
意識が大きく変わった。迎えた秋季九州大会の準々決勝。終盤まで2点差で負けていたが、
肩を痛めていたエース、大嶺祐太(17)が八回から半年ぶりのマウンドに登り、豪速球で3者三振に打ち取ると流れが変わった。
九回裏に同点に追いつき、十二回裏、満塁から相手捕手の後逸で、サヨナラ勝ちした。
「シタイヒャ(やったぞ)」。スタンドでは島人(しまぴとぅ)の喜びが爆発。伊志嶺は「野球の神様が助けてくれたんでしょう。
たくさんの島の人の思いに応えられたことが何よりうれしかった」。チームは準優勝し、1月31日にセンバツ出場が決まった。
05年に八重山諸島を訪れた観光客は約75万人。観光収入は約524億円に達する。
選手たちはその後、たくさんの観光客が訪れるグラウンドで練習に励んできた。卒業式を終えた佐久川も
チームに帯同することになった。「絶対甲子園に連れて行く」という約束を伊志嶺が果たしたのだ。
伊志嶺は相変わらず選手たちに活を入れる。目標を尋ねると必ず「全国制覇です」と答える。
本気で信じれば夢がかなうことを知ったからだ。
23日に開幕するセンバツ開会式で、八重山商工は最後の32番目に入場行進する。いざ、あこがれの甲子園。
南の島の夢をかなえた選手たちに、野球の神様はきっとほほ笑むだろう。
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