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忘勿石(ワスルナイシ) ![]()
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西表島・豊原地区と南風見田の「忘勿石之碑」入口の間に、140宿泊棟のリゾート計画があるそうです。 八重山毎日新聞2月20日掲載 ◆南風見田は波照間島民が強制避難した場所でした◆ 戦後は豊原となった南風見に開拓移民が入植したのは、1637年に始まった人頭税下の1734年。 後にマラリアの為に南風見村は廃村になったのですが、南風見田の浜は戦争末期に 波照間島の全住民が強制避難の揚句に、食糧難とマラリアで多くの命を失った場所です。 45年3月27日、米軍が慶良間諸島に上陸した直後の避難命令だったようで、 波照間島に派遣された離島残置工作員・山下虎雄の指揮で、 4月上旬から始まった南風見田への強制疎開は、山下の非道とマラリアから島民を救うために、 7月下旬に島を抜け出した識名校長が、石垣島の宮崎武之45旅団長に疎開の解除を直訴し、 そして許可されるまで続きました。 ◆ヌギリヌパと忘勿石◆ 南風見田の浜の東のほう、島の言葉で「のこぎりの歯」というヌギリヌパの岩の近くに、 大きく平らな石があります。波照間島から疎開した子供たちが、識名校長と共に青空教室を開いた 岩場だといいます。そこから遠く南の海には、薄っすらと波照間島が見えます。 後ろに続く密林地帯の中に、かつて波照間の人々が、死と隣りあわせで生きていた痕跡は もはやありません。そんな史実さえ、ごく近年まではよく分かっていませんでした。 波照間国民学校の識名信升校長は、この地を離れるとき、この大きな石に文字を刻みました。 石を刻む光景は目撃されてはいたそうですが、識名校長は他言しなかったので、 それが何であったのか知る人はほとんどいなかったといいます。 戦後に移住した住民によって発見されたのは1953年。刻んだ文字は「忘勿石 ハテルマ シキナ」。
●参考文献● 大田静男「八重山の戦争」南山舎 毎日新聞特別報道部取材班「沖縄戦争マラリア事件」東方出版 宮良作「日本軍と戦争マラリア」新日本出版 桜井信夫「ハテルマシキナ」かど創房 |